日本では「凡人は大人物・大事業の一部しか理解できないというたとえ」goo辞書群盲象を評す(ぐんもうぞうをひょうす) の意味より
という意味でつかわれるようですが、もともとはインド発祥の寓話で、インドはもとより仏教やイスラーム、アメリカでも説諭として使われる話です
次のようなお話です
ある時盲目の人(目が見えない人)が6人集まり象を触ります。
足を触った人は「柱のようだ」
尾を触った人は「綱のようだ」
鼻を触った人は「木の枝のようだ」
耳を触った人は「扇のようだ」
腹を触った人は「壁のようだ」
牙を触った人は「パイプのようだ」と答えました
彼らは象にじかに触れているので自分こそは正しいと主張します
ですが彼らの話を聞いた人はこう諭しました。
「あなたたちは皆、正しいのです。
あなたたちの話が食い違っているのは
あなたたちが象の異なる部分を触っているからなのです。
象はあなたたちの言う特徴を、全て持っているのです」
この寓話は、物事の全体像が見えている人が
エライという話ではありません
人は誰でも盲目の人のように、
自分が経験したことが全てであり正しいと思ってしまう
しかし実際のところ、それは一部分にすぎず
他の人の意見にも耳を傾けるべきという寓話なのです
群盲象を評すから考えることは
さて、あなたはこの寓話を聞いてどう思いますか?
私は二通りのパターンが思い浮かびました
1つ目は自分こそが正しいと声高に主張する人というのは、まさに「群盲象を評す」に出てくる人だなという考えです
2つ目は自分が困ったり悩んだりしているときは、「群盲象を評す」のように一部分しか見えていないのでは?と考えられればいいなぁと考えました
一つずつ見ていきましょう
自分こそ正しいと思えてしまうのは何故か?
盲目の人が象を実際に触ったように、自分が体験したものというのは真実であることに違いありません
体験が真実でなければ、自分の今までの人生は一体何なんだ?ということになってしまいますからね
では何が問題かというと、外から見れば象の耳を触っているだけなのに、本人は象のすべてを触っていると勘違いしている点にあります
では勘違いをせずに自分は一部分しか触っていないと考えられるのか?となるとこれも難しいと思います
なぜならどんな物事や出来事も一つ二つの側面しか持っていないなんてありえないからです
中学校くらいで習う円錐ですら正面は三角で上から見れば丸ですからね
なので自分こそ正しいと断言してしまっている人は、本当に頭が悪いのかそれとも別の思惑があるのかと疑ったほうがいいかなと思います
このようにいわれると「なんだそんなことか」と思ってしまいがちですが、こういう場合はどうですか?
断言というのは人の背中を押す役割があります。
なのでこれが正しいという断言を使うときは人の背中を押したいという思惑があるときに使うといいでしょう
自分が困ったり悩んだときは「群盲象を評す」を思い出そう
そら(「群盲象を評す」思い出せたら)そう(解決する)よ 終わり
だと物足りないので少し補足というか考え方をまとめてみたいと思います
そもそも困ったり悩んだりする問題って解決できるんですか?ということを考えたほうがいいと思います
誰かの助けを得られれば解決する問題なら助けてもらえばいいだけですし、自力で解決する見通しが立てば時間がかかってもコツコツやっていけばいいだけです
そんな道筋が見えないから困ったり悩んだりするんですよね
ここまで言ったらもうわかっちゃうと思うんですが、解決しないってことは問題の一部分しか見えてないから解決しないんですよね
だから困ったり悩んだりしたときはほかの人にアドバイスを求めるわけです
イギリスにマルサスという経済学者がいたんですが、彼は人口論という本を出して、人間は制限がなければ人口が倍々ゲームで増えていくが、農地の増加はそれに追いつかない。だから人は農地で生産できる食料分だけの人口になるように自動調節されると考えました。これは戦争や貧困による死亡は調節だからしょうがないという考えです(もし戦争や貧困等で調節できなければ飢餓という最終的な破滅が待っているとしました)
トンデモ理論のように聞こえますが当時はこの考えに真っ向から理論的に反論できませんでした
この問題の解決はマルサスから100年以上たって、化学肥料や農業の機械化などが進み土地当たりの生産量が激増してからです
マルサスは晩婚化などの少子化政策で乗り越えることを考えましたが、抜本的な解決は科学の発展という全く別のマルサスが考えてもみなかった方法でした
マルサスのようなすごい経済学者ですらこんな感じなんです
群盲象を評すの寓話はジャイナ教徒創始者マハーヴィーラの動画で取り上げました(動画の宣伝です)
ジャイナ教の開祖マハーヴィーラはどんなことも断言せず「ある点からすれば」をつけるように主張したそうです